職場で特別な価値観や能力を持つ人を他の人と同じように合わせようとすること。
それが出る杭を叩く行為です。
特別な価値観や能力を持っている人は叩かれやすく、「周りに合わせろ」と言われることが多いです。
しかし、個人的にはそれが良いことであるとは思いません。
むしろ特別な価値観や能力を持つ人は、その特性を伸ばせばかなり戦力になることもあると考えています。
学校という集団で行われた価値観を一律化する教育といじめ
学校は集団で生徒が教育を受け、求職や昼休み、掃除の時間を過ごす場です。
この場を通じて、子供は集団の中でどう過ごしていけばいいのか、自分なりの答えを見つけて学んでいきます。
しかし、全ての人が同じ解釈をして同じことを学ぶわけではありません。
中には他の人と異なる考え方で解釈して学んでいく人もいます。
それがいじめに繋がったり、先生から出来損ないだと言われたりする原因になる。
そうやって、日本では集団の中で同じ価値観を持つことを良しとし、そうではない人を排除することで集団行動に強い人たちを作ってきました。
「みんながやっているのになぜあなたはやらないの?」
これは自分も良く言われたことですが、こちらとしてはやりたくないからやらないというだけで、それ以上の理由はありません。
ただやりたくないから一人でいるだけです。
みんながやっているからと言われえても、それが自分もやろうと思うきっかけにはなりません。
いくら相手が教師であろうと、強要される筋合いはありません。
また、給食を完食するまで嫌いなものを無理に食べさせる。
昼休みをつぶしてまで給食を食べさせる。
これは教育という名の虐待であり、自分が中学校を卒業するまでの平成一桁年くらいまではよくあったのですが、今教師が同じことをすると学校や教育委員会に苦情が行く案件です。
そして、テストの時、これは小学校で顕著ですが、
習っていないことを答えに書くと×にされる。
模範解答と違う発想で解答すると×にされる。
このような事例を多く見てきました。
例えば小学校のテストでこういう問題があったとします。
自宅から駅に行くのに歩いて15分かかる。8時50分に駅につくのに自宅を何時何分に出ればいいか?
この問題の模範解答は8時35分ですが、ある子が解答に8時30分と書いて、時間ギリギリに出ずに余裕を持って家を出たいからと理由を書いたとします。
模範解答が8時35分なので、8時30分と書くと×になってしまいます。
しかし、ここでよく見て欲しいのが、解答した子は問題の趣旨が分かっていて、余裕を持たせて行動するための時間を考慮して回答したという点です。
このような解答をした子は、ただテストだからと機械的な回答をするのではなく、きちんと現実世界と結び付けて回答をしたわけです。
この発想が小学生で出来る人は珍しく、個人的には花丸をあげたいくらいの発想力の秀才であり、これを否定してしまうのは教育としては間違っています。
なぜなら、秀才の発想をする人を凡人の発想をする人に変えてしまうからです。
また、自分が高校生の時、東大の受験のために担任に専用の学習を許可された人が何人かいましたが、その人たちに「出ていけ」と言って追い出した愚かな教師も見てきました(担任から専用の学習をしていいと認められたという事情を話したにも関わらずです)。
その人たちは図書室で学習し、授業が終わると戻ってきました。
幸いなことにその三人は東大に合格できましたが、その愚かな教師以外は東大に受験する人たちをしっかりバックアップしてきたから、東大受験の勉強の環境が整い、東大に合格できたのだと思います。
当時の校長に注目され、東大受験をする人をバックアップする体制が出来ていたため、良い結果となりましたが、他の教師も同じように東大受験の人たちにそれ以外の人たちを同じ授業を受けさせていたら、おそらく東大合格者は出ても一人くらいだったことでしょう。
このように出る杭を叩く行為が学校で行われることは、自分が学生時代によく見てきました。
この出る杭を叩く行為は子供の発想力や想像力などの能力を否定してしまうことになります。
実際にこの教育を通してできたのが今の日本です。
今の日本人のほとんどがやったことがないことに対して拒絶感を覚え、やりたいことを実現できず、自分が属している輪から外れることを恐れるのが、何よりもの証拠です。
秀才にお金を投資せず、凡才を大切にする会社
会社では特定のことがものすごく出来る人より、何事もまんべんなくこなせる人の方が評価が高く、特定のことがものすごく出来るのにそれを活かす場も与えられず、才能を育てられない人がいます。
これも他の人と同じようなことが出来ればいいということがもたらしたもので、折角の秀才が活躍する場所を与えられず、凡才以下の存在になって終わってしまう。
また、特別な価値観を持った人の考えを聞かず、頭から否定することで特別な価値観を持った人が自信を失ってしまう。
その時に使われる言葉が「いや、」、「いやいや」なのです。
自分は組織の中には様々な価値観を持った人がいて、それらの人が同じ目標を目指して、人によって様々なアプローチを行いながら、目標を達成するのが自然な組織の在り方だと思います。
上司の言うことは絶対、社長の言うことは絶対、そんな考え方を刷り込まれて皆が同じ価値観を持った組織は不自然であり、正直言って気持ちが悪いです。
何か宗教的なものすら感じるのですが、そこに属している人は何とも思いません。
そして、その色に染まらない特別な価値観を持っている人が、ハラスメントを受けたり、価値観を無理やり押し付けられたりして、嫌気がさしてその会社を去っていくのです。
もし、会社を去った人が技術開発や経営、マネジメント、マーケティング、人を育てることなどに優れた人であれば、会社は大損することになるのですが、会社はそのことに何も気づかずに同じことをやり続けます。
なので、このような人は海外や外資系企業で活躍したり、スタートアップ企業のうち多様性を重視する企業に入社してそこで才能を開花させるわけです。
得意を特化させるとかなりのレベルの専門家になる可能性があります。
例え他のことが出来なくても、この人がいるから会社の経営は保たれている。
そんな感じで社員を見ない会社が多いから、日本からは世界的にヒットする商品やサービスが出にくい状況となっていると自分は考えています。
出る杭を叩くと天才は生まれない。出る杭をそのまま出続けさせると天才は才能を発揮する
このように、今の日本では他の人と同じことをやっていることが良しと考えて、皆と同じことをさせ、同じ価値観や能力を持たせることが良しとされてきました。
確かに集団で一致団結して物事をやるのに向いていますが、その方向がもし間違っている場合、だれも止める人がいなくなります。
このようなリスクを分散させるため、「他の人がやっているから」という価値観を持って行動することを強要してはいけません。
また、特別な価値観を持っていたり、特定の分野に精通していて高いスキルがあったりする人に、スキルを活かすことが出来ない電話対応や雑務をやらせて低い評価をすることは辞めておいた方がいいでしょう。
出る杭を叩いて他の人と同じレベルに合わせてしまうと、その人は平凡な人生を送り、本来持っていた高い能力やスキルを発揮することなく人生を終えてしまいます。
何かの価値を創造するためには出る杭はそのままにして、そのまま杭が出続けて状態にすることが大切なのです。
そして、出る杭を持った人が自分の特化したスキルを伸ばせるようにする仕組みが必要で、この仕組みがきちんとしていないとほかの会社よりも優れた部分が出来ないのです。
ノーベル賞の受賞者で海外に移住した方が「日本ではやりたい研究が出来ないから」と話されたことは自分の中でかなり印象に残っています。
また、子供の天才スポーツ選手の本人だったか親だったかははっきりと覚えていませんが、同じことを話していて、将来海外移住する意向を話されていました。
これは海外の方が天才や秀才に対しての考え方が寛容であり能力を伸ばせる仕組みを用意できているからだと思います。
幸いなことに今の時代では日本でも様々な個性が認められるようになりましたが、出る杭を叩く風習はまだ強く残っています(特にJTCと呼ばれる企業や政治家の慣習などに根強く残っている印象です)。
小学生なのに微分が理解できる人や応用情報技術者試験に合格できる頭を持っている人がいることは確かです。
そのような人に他の小学生と同じ授業を受けさせても退屈なものでしかなく、時間の無駄であると思います。
小学校から高校などに飛び級出来る制度や、10歳からでも大学入試が受けられるなどの仕組みが出来るといいのかもしれませんが、残念なことに今の日本ではそのような制度は存在していません。
あまりにも飛び出しすぎた杭に対しては対処が難しいのかもしれませんが、天才や秀才レベルの人に凡人と同じことをさせるような状況が日本で今後も続くようであれば、日本の競争力はさらに落ちていくことになるでしょう。
なので、日本が今後変わらない限り、出る杭を持った人に対する圧力が少ない国で自分の能力を開花させた方が、人生はうまくいくのではないかと思います。
今回のお話は以上となります。
最後まで読んでいただきありがとうございました。