今回紹介する話で、『ユダヤ人の成功哲学「タルムード」金言集』の話の紹介は最後となります。
なお、今回までに紹介したすべての話は短くするなどして書籍の原文に変更を加えています。
そのため、書籍の文章と異なる部分が多々ありますので、本来のタルムードとは少し離れる内容になっています。
また、本に載っているすべての話を紹介することは、本を読む楽しみをすべて奪うことにもなるという理由でやらないことにしました。
他の話を知りたい方や書籍の文章を読みたい方は書籍を購入して読むことをお勧めします。
今回はある村の貧しい夫婦が三つのお願いをしてその願いが一度は叶えられますが、最後には願いを取り上げられ貧しい生活に戻ってしまう話です。
願いが一度は叶ったのになぜ願いが取り上げられることになったのか?
願いがかなえられた後の夫婦の生活に注目してほしいと思います。
「村人の三つの願い」の話の内容
ある村に貧しいけど敬虔に慎ましく生活している夫婦がいました。
その夫婦の元に預言者エリジャが貧しい格好で現れ、一杯の水を欲しいと夫婦に乞いました。
夫婦は水を預言者エリジャに与えるだけではなく、自分たちが出来る最大のもてなしをしました。
夕食の席で預言者エリジャはお礼に三つの願いをかなえることを夫婦に伝えたところ、夫婦は喜んで
大きな家に住みたい、立派な服を着たい、金貨が欲しい
という願いをしました。
翌日、その三つの願いは叶えられ、預言者エリジャは姿を消していました。
三年後、預言者エリジャがまたその村にやって来て、同じ夫婦の元に水を一杯もらえないかというお願いをしに来ました。
家には高い塀が張り巡らされ、門番が犬を連れていました。
門番は「お前にやる水はない」と言い、番犬をけしかけようとしました。
番犬の吠える声を聞いて家の主人が出て来ますが、「さっさと立ち去るがよい」と預言者エリジャに一言放って家の中に入っていきました。
預言者エリジャは貧しい時は優しい心を持っていたのに、お金持ちになるとその心を失ってしまったことを残念に思い、一度叶えた望みをすべて取り上げてしまいました。
翌日、村人夫婦は預言者エリジャが願いを叶える前の生活(小さな小屋にボロ着をまとい金貨一枚もない生活)に戻ってしまいました。
その後も夫婦は生涯貧しいままでした。
お金持ちになって失ったもの、それは豊かな心ではないか?
村人の三つの願いで、貧しかった夫婦は願いを叶えられ、貧しい生活から一転してお金持ちになりました。
しかし、預言者エリジャが再訪するまでの三年間で夫婦は変わってしまいました。
お金持ちになったことで、それが当たり前になってしまいます。
塀を立てて門番と番犬を用意し、自分たちの財産が失われないように、つまり自分の富を守るためにお金を使ってしまいます。
おそらく貧しい人への寄附や募金などは全く行っていなかったことでしょう。
とにかく自分たちのためだけにお金を使う。
そんな人に変わってしまったのです。
「さっさと立ち去るがよい」
この言葉は貧しかったころに預言者エリジャに対して「さぞかしお困りでしょう」と言った同じ夫婦の言葉だとは思えないものです。
お金を持つことで人格が変わってしまった。
「ボロを着ても心は錦」だった夫婦は「錦を着ても心はボロ」という正反対の人になってしまったのです。
つまり貧しくても心は豊かであったのに、お金を持つと心の豊かさを失い、貧しい人への気遣いを忘れてしまったのです。
お金が豊かになっても変わらずに貧しい人への気遣いを持っているかを預言者エリジャは見たかったのでしょう。
お金の代わりに貧しい人への気遣いを忘れたから預言者エリジャは願いを取り上げることにしたわけです。
そもそも願い事の内容も悪かった
広い家に住みたい、立派な服を着たい、金貨が欲しいという村人夫婦の三つの願いですが、これらはどれもいい願い事だとは思えません。
そもそもお金に恵まれる豊かな生活をしたいのであれば、自力で工夫して収入を増やし、その上でかなえていくべき願い事であるからです。
何の努力もなしにいい暮らしをしようとすると、その生活に釣り合ったお金の知識や心の器になっていないため、うまくいきません。
折角宝くじに当たったのに最後は借金生活になる人、失敗をせずにたまたまうまくいって成金となり、ブームが去って物が売れなくなり、良い生活を手放すことになった人、そんな人とこの村人夫婦のイメージは重なります。
村人夫婦は分不相応な暮らしをしてしまったため、成金と同じお金の使い方をし、成金と同じ人格になってしまった。
そうとも考えられます。
もし夫婦が努力を伴ってお金持ちになれるような願いをしていたら貧しい時と同じ人格を三年後も持っていたかもしれません。
努力をすれば貧しかったころの苦労とそこから抜け出す苦労の二つを味わうこととなり、お金を持ってもその二つの苦労は心に残ることでしょう。
努力をせずに分不相応なお金持ちになると、貧しかったころの苦労を忘れ「俺はお金持ちだから偉い」と言った間違った気持ちを抱くことになるのです。
村人夫婦はどうするべきであったか?
「村人の三つの願い」に登場した夫婦。
一度はお金持ちになりますが、最後は貧しい生活に戻り、一生貧しい生活を送ることになりました。
では、この村人夫婦はどうしたら良かったのでしょうか?
まず、前の章で述べたように苦労せずにお金持ちになる願いをするべきではありませんでした。
「衣食足りて礼節を知る」という言葉がありますが、村人夫婦は貧しくてもきちんと礼節を知っていたわけです。
それが衣食が足りすぎると礼節を忘れることになってしまった。
これを防ぐには過度なお金持ちになる願い事ではなく、段階を踏んで心を育てながらお金持ちになる願い事をすればよかったのです。
農園を持つことや牛二頭を持つこと・・・などであればよかったかもしれません。
あるいは願い事そのものを辞退するという手段もあった。
もう一つ、お金持ちになっても貧しかった時の苦労を忘れず、質素に生きるべきだったとも思います。
高い塀を作らず、門番を雇うこともせず、生活レベルをほどほどにして、募金や寄付などの他人に対して何かをする時は惜しまずお金を使う。
こんな生活を送っていれば、三年後に預言者エリジャが同じように訪ねて来ても、同じようにもてなしを行い、預言者エリジャに願い事を取り上げられることもなかったでしょう。
実際に本当の意味でのお金持ちは散財せず、質素で倹約な生活を送っています。
しかし、日本には成金タイプも多く、自分のためにお金を使うだけではなく貧しい人を見下す人が多いのも事実です。
テレビでお金持ちと言えばこの成金タイプの人が出て来ます。
本当のお金持ちが出ても視聴率が取れないので分かりやすい成金タイプが出るわけですが、テレビの影響を受けやすい人はこの成金タイプがお金持ちであると勘違いしてしまいがちです。
村人の三つの願い・・・この話は成金タイプにならないことへの警鐘の意味を含んだ話ともいえるかもしれません。
今回のお話は以上となります。
最後まで読んで頂きありがとうございました。